ブックタイトルTAKAMATSU ART LINK 令和2年度報告書

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概要

TAKAMATSU ART LINK 令和2年度報告書

山下 完和/YAMASHITA masato1967 生まれ 三重県伊賀市在住 社会福祉法人やまなみ会 やまなみ工房施設長高校卒業後、プー太郎として様々な職種を経た後、1989 年5 月から、障害者無認可作業所「やまなみ共同作業所」に支援員として勤務。その後1990年に「アトリエころぼっくる」を立ち上げ、互いの人間関係や信頼関係を大切に、一人ひとりの思いやペースに沿って、伸びやかに、個性豊かに自分らしく生きることを目的に様々な活動に取り組む。2008 年5 月からはやまなみ工房の施設長に就任し現在に至る。特別寄稿 山下 完和「目、目、鼻、口・・・」、この呟きをこれまで何百回、いや何千回耳にしたことでしょう。誰かに主張するためでもなく、評価や賞賛を得るため声高らかに自慢するわけでもありません。「目、目、鼻、口・・・」。まるで呪文のような独り言。言葉の主である吉川秀昭さんは現在50歳。ダウン症の彼には重度の知的障がいがあります。僕は今、彼に対し心から尊敬の念を抱いています。吉川さん、秀さんは滋賀県にあるやまなみ工房に通い今年で32 年目を迎えました。僕は現在そのやまなみ工房で施設長をさせていただいています。実は、僕が今の僕であること、やまなみ工房が今のやまなみ工房であることは秀さんの存在がとても大きく影響しているのです。僕は秀さんからたくさんのことを教わりました。おかげで本当の豊かさとは何かについて深く考えることができたのです。秀さんは何事にも丁寧に取り組みます。丁寧さは僕の常識を遥かに超え、手洗い、食事、着替え、乗車、すべてにおいて独特の時間を要します。やまなみに来た頃、秀さんは目の前に置かれた紙のサイズに関わらず、毎日小さな四角を一つ描いていました。寡黙に、時ににこやかに、ただひたすら自分の指先を見つめ1日3時間、ゆっくりゆっくり描く2 センチ四方の正方形。文字や言葉でのコミュニケーションが苦手な秀さんを僕は長い間、1 枚の紙に小さな四角を一つしか描けない人だと思い込んでいました。1 日1 枚、出勤時に手渡される真新しい紙に一つの四角、来る日も来る日もまた次の日も。ところがある朝、本当ならきれいに片づけられているはずの机に前日に描いた紙がそのまま残っていたのです。秀さんは躊躇うことなく前日描いた四角の横に新しい四角を描き始めました。今から思えばとても失礼な話ですが、単純に紙を節約する意味で同じ紙を続けて手元に置くことにした僕は、数日後その小さな四角が実は人間の目と鼻と口であることに気づきました。秀さんは小さな四角しか描けない人ではなく、人の目一つを3 時間かけて描く人だったのです。生産性や効率重視の中に身を置き、集団や社会にいかに適応できるかどうかを考え、人の目ばかりを気にしながら生きている僕、自分自身に満足し、他人と比較せず競争もしない、「こうでなければならない」や「こうあるべきだ」の声に惑わされず自分自身のために目的を持つ秀さん。良かれと思い設定した日常、僕の「普通」や「常識」に照らしては、まるで秀さんも同じ価値観、同じ気持ちと錯覚し、やれ作業だの、やれアートだの。秀さんからすれば僕との間に、何より理不尽な障がいを生み出していたことでしょう。1 日1 枚、ましてや1 日中取り組めば、誰でも一つの作品ぐらい完成するだろうと言う根拠のない僕の概念は、代償として秀さんの必要な時間を奪い、四角しか描けない人にしてしまっていたのです。代表作の一つ、数えきれない無数の小さな四角が施された絵画、「目・目・鼻・口」に要した時間は2 年半。その絵画は一昨年、世界一の大学といわれるハーバード大学で展示され大きな話題となりました。展覧会のタイトルは「eye eye nose mouse」。その後も秀さんから生まれる多くの作品は国内外で高い評価を受けています。僕はあらためて秀さんに憧れを、夢のような現実には驚きを抱き、同時にこれまで秀さんのことを「かわいそう」だとか「不幸」だと思い込んでいた人を見返した気になりました。当の秀さんはまるで他人事、素知らぬ顔をしたままなのに。「目・目・鼻・口・・・」、秀さんは今日もそうつぶやき、自分の行為に没頭します。満面の笑みからは悩み落ち込む根拠は見当たりません。たとえばこの1 年、僕はどれだけ「大変だ」とか、「困った」だとか「不便だ、残念だ」と口にし、戸惑い、そして落ち込んだことでしょう。絶えず情報を収集してはため息ついて不安を煽り、結局他人や社会のせいにしてばかり。隣にいる秀さんはいつもと変わらず素知らぬ顔をしたままなのに。2020 年、思い描いていた未来とは違うけど全てが愛おしい。確かに様々なことに変化を余儀なくされた1 年でした。ただ変化とは何かを失うことなのでしょうか。僕は違うと思います。なぜなら変化とは、何かを得ることだと気づくことができたから。次々に削ぎ落され最低限のものしか残らないと慌てふためいた日常には、本当に必要なものだけに囲まれた豊かな日常がありました。「目・目・鼻・口」、その呟きに耳を傾けながらやまなみ工房を見渡せば、そこには安心できる時間と空間。同僚たちのやさしい眼差しとうれしい言葉、美しい真心が溢れています。そして32 年間、今日も変わらない小さな四角は「あなたはありのままのあなたでいいんだよ」、「あなたの価値観に正直でいいんだよ。何があっても僕はそばでいるからね」と不思議な魔法をかけたかのようにそっと背中を押してくれました。幸せに向かって。http://a-yamanami.jphttps://www.jizolibido.com19 | | 20